×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
雨のち晴れ。
1月22日、日産スタジアム。昨年8月、急性心筋梗塞で亡くなった松田直樹選手の追悼試合が開催され、中村俊輔、川口能活、城彰二ら横浜F・マリノスの現役OB混成チームに、松本山雅、そして中田英寿、中山雅史ら2002年の日韓W杯メンバー、元日本代表を中心にした「直樹フレンズ」と豪華メンバーが一堂に会した。
松本山雅はゴールが決まると背番号3が刻印されたリストバンドを掲げ、マリノスは松田の代名詞であるヘアバンドを身につけて天に向かって三本指を突き上げる。繰り返される「直樹コール」。4万人も集まったスタンドは笑いと拍手に包まれ、天国の松田直樹も笑みを返すように、空はみるみるうちに明るくなっていった。
選手それぞれにあった松田への想い。カズもヒデも、川口も中村も……。遊びの色が強いはずのゲームなのに、球際では自然とガツガツとぶつかり合っていた。激しいプレーを身上とする松田の香りがあちこちに漂っていたのも、各々が松田を感じながらプレーしたからに違いなかった。
■松田の背中を追い続けた、マリノスの「背番号30」。
そのなかの一人に、マリノスの「背番号30」がいた。松田の薫陶を受けてきた栗原勇蔵は若手時代につけた番号を背負い、日本代表の先輩たちに容赦なく体をぶつけていた。
「凄いメンバーと一緒にゲームをやれて楽しかったし、なんかこう、ワクワクできたというか。これだけのメンツと、これだけのサポーターを集めてしまうマツさんは、やっぱりスゲエなってあらためて思った」
栗原は松田の背中をずっと追ってきた。
2002年にユースからトップに昇格したとき、日韓W杯メンバーの中心的存在であった松田は栗原にとって燦然と輝く存在だった。
「マツさんはトータルに優れたディフェンダー。スピード、パワー、うまさとか全部高いレベルにあるなかで、一番の凄さは読みと統率力だと思う。将棋みたいに二手、三手先を読んで周りを動かすことができるから」
練習や試合で松田の守備感覚を学び、教わり、栗原は2年目から出場機会を得るようになった。松田も「スピード、ジャンプ、パワーと勇蔵の身体能力は半端ない。アイツから学ぶことも多い」とライバルとして認めるようになっていた。
■試合前の松田に強烈な張り手で気合いを注入。
2人のエピソードとしてよく知られているのが2004年12月のチャンピオンシップ。アウェー戦となった第2戦の試合前、「気合いを入れてくれ」と松田が栗原に頬を張るように頼み、腕っぷしの強さで鳴る後輩の強烈なビンタに「意識が飛びそうだった」と頬をさすりながらピッチに立った。だがこのビンタがチーム全体への気合い注入となり、浦和レッズとの激闘をPK戦の末に制して2連覇を果たすわけである。先輩後輩でも遠慮なし。2人の絆を垣間見ることができるエピソードであった。
■代表での栗原は実力を発揮できず、南ア行きを逃した。
栗原はリーグ戦30試合に出場した2006年以降、松田や中澤とともにマリノスの中心となっていく。しかし代表ではオシムジャパンに選出されながら定着できなかった。2010年4月の親善試合セルビア戦で満を持して代表復帰。そのとき、指揮官の岡田武史が「これまではポジショニングや、常にアラートの状態でいられるかというところで問題があったが、最近そういうところも改善されてきた」と栗原の成長を買ったうえでの招集だった。だが栗原はセルビア戦で結果を残せずに前半だけで交代させられてしまい、南アフリカ行きの切符を手にすることはできなかった。松田もうらやむほどの高いポテンシャルを持っているのに、代表では突き抜けられない。そんな状態がしばらく続いた。
■ザッケローニ監督に指摘された「安パイなプレー」。
2011年、栗原にとっては飛躍の一年になるはずだった。
アルベルト・ザッケローニに評価され、2010年10月のアルゼンチン戦、韓国戦で今野泰幸とコンビを組み、強豪相手に無失点で抑えきった。やっと軌道に乗り始めたと思いきやケガでアジアカップに参加できず、吉田麻也にレギュラーのポジションを奪われてしまうのである。
ザッケローニからは8月末、練習後に呼び止められ「アルゼンチン戦や韓国戦のときと比べて、激しさとか若さのあるプレーが少なくなったんじゃないか」と苦言を呈された。栗原は自問自答した。「自分はそういう激しさが売りのはずなのに安パイなプレーになっていたのかもしれない」と――。
■“全力”を出し切って、松田の死を乗り越える。
尊敬した松田がこの世を去り、栗原は一時期「ユーチューブ」で松田のプレーを探すようになっていた。画像を見ながら松田の溢れ出るような闘志に触れていた。
栗原は今こそ自己改革のときだと覚悟している。
「2012年のテーマは『全力』なんです。ここずっと(試合では)自分の力を抑え気味にやっていたように感じていたし、やっぱりそれじゃいけない。常に全力でやっていかないと、自分のレベルもアップしていかない」
人並み外れた筋力の持ち主は、ケガを怖れて自分の力を無意識でセーブしてしまうところがあった。しかしそれでは上に行けない。松田の存在を「超える」ことはできない。レギュラーの座を奪い返せていない代表で当落線上の戦いが続くなか、今年こそ勝負を懸けなければならない――。松田の死というショックを乗り越え、栗原にはその思いが強くなっている。
■「激しいぐらいの熱さは、絶対に捨てちゃならない」
この日、天国から見守った松田直樹は、栗原に何を語っただろうか。
以前、松田からディフェンダーとしてのポリシーを聞いたことがある。
「冷静さは大事だけど、熱くあってこそ自分。相手を吹っ飛ばすぐらいの迫力は必要だし、死んでも止めてやるぐらいの気持ちでプレーする。激しいぐらいの熱さというのは、絶対に捨てちゃならない」
熱く、激しく。
“松田魂”を胸に秘める栗原は、晴れ上がった空を見上げていた。
(「日本代表、2014年ブラジルへ」二宮寿朗 = 文)
(この記事はサッカー(Number Web)から引用させて頂きました)
豚キムチ
1月22日、日産スタジアム。昨年8月、急性心筋梗塞で亡くなった松田直樹選手の追悼試合が開催され、中村俊輔、川口能活、城彰二ら横浜F・マリノスの現役OB混成チームに、松本山雅、そして中田英寿、中山雅史ら2002年の日韓W杯メンバー、元日本代表を中心にした「直樹フレンズ」と豪華メンバーが一堂に会した。
松本山雅はゴールが決まると背番号3が刻印されたリストバンドを掲げ、マリノスは松田の代名詞であるヘアバンドを身につけて天に向かって三本指を突き上げる。繰り返される「直樹コール」。4万人も集まったスタンドは笑いと拍手に包まれ、天国の松田直樹も笑みを返すように、空はみるみるうちに明るくなっていった。
選手それぞれにあった松田への想い。カズもヒデも、川口も中村も……。遊びの色が強いはずのゲームなのに、球際では自然とガツガツとぶつかり合っていた。激しいプレーを身上とする松田の香りがあちこちに漂っていたのも、各々が松田を感じながらプレーしたからに違いなかった。
■松田の背中を追い続けた、マリノスの「背番号30」。
そのなかの一人に、マリノスの「背番号30」がいた。松田の薫陶を受けてきた栗原勇蔵は若手時代につけた番号を背負い、日本代表の先輩たちに容赦なく体をぶつけていた。
「凄いメンバーと一緒にゲームをやれて楽しかったし、なんかこう、ワクワクできたというか。これだけのメンツと、これだけのサポーターを集めてしまうマツさんは、やっぱりスゲエなってあらためて思った」
栗原は松田の背中をずっと追ってきた。
2002年にユースからトップに昇格したとき、日韓W杯メンバーの中心的存在であった松田は栗原にとって燦然と輝く存在だった。
「マツさんはトータルに優れたディフェンダー。スピード、パワー、うまさとか全部高いレベルにあるなかで、一番の凄さは読みと統率力だと思う。将棋みたいに二手、三手先を読んで周りを動かすことができるから」
練習や試合で松田の守備感覚を学び、教わり、栗原は2年目から出場機会を得るようになった。松田も「スピード、ジャンプ、パワーと勇蔵の身体能力は半端ない。アイツから学ぶことも多い」とライバルとして認めるようになっていた。
■試合前の松田に強烈な張り手で気合いを注入。
2人のエピソードとしてよく知られているのが2004年12月のチャンピオンシップ。アウェー戦となった第2戦の試合前、「気合いを入れてくれ」と松田が栗原に頬を張るように頼み、腕っぷしの強さで鳴る後輩の強烈なビンタに「意識が飛びそうだった」と頬をさすりながらピッチに立った。だがこのビンタがチーム全体への気合い注入となり、浦和レッズとの激闘をPK戦の末に制して2連覇を果たすわけである。先輩後輩でも遠慮なし。2人の絆を垣間見ることができるエピソードであった。
■代表での栗原は実力を発揮できず、南ア行きを逃した。
栗原はリーグ戦30試合に出場した2006年以降、松田や中澤とともにマリノスの中心となっていく。しかし代表ではオシムジャパンに選出されながら定着できなかった。2010年4月の親善試合セルビア戦で満を持して代表復帰。そのとき、指揮官の岡田武史が「これまではポジショニングや、常にアラートの状態でいられるかというところで問題があったが、最近そういうところも改善されてきた」と栗原の成長を買ったうえでの招集だった。だが栗原はセルビア戦で結果を残せずに前半だけで交代させられてしまい、南アフリカ行きの切符を手にすることはできなかった。松田もうらやむほどの高いポテンシャルを持っているのに、代表では突き抜けられない。そんな状態がしばらく続いた。
■ザッケローニ監督に指摘された「安パイなプレー」。
2011年、栗原にとっては飛躍の一年になるはずだった。
アルベルト・ザッケローニに評価され、2010年10月のアルゼンチン戦、韓国戦で今野泰幸とコンビを組み、強豪相手に無失点で抑えきった。やっと軌道に乗り始めたと思いきやケガでアジアカップに参加できず、吉田麻也にレギュラーのポジションを奪われてしまうのである。
ザッケローニからは8月末、練習後に呼び止められ「アルゼンチン戦や韓国戦のときと比べて、激しさとか若さのあるプレーが少なくなったんじゃないか」と苦言を呈された。栗原は自問自答した。「自分はそういう激しさが売りのはずなのに安パイなプレーになっていたのかもしれない」と――。
■“全力”を出し切って、松田の死を乗り越える。
尊敬した松田がこの世を去り、栗原は一時期「ユーチューブ」で松田のプレーを探すようになっていた。画像を見ながら松田の溢れ出るような闘志に触れていた。
栗原は今こそ自己改革のときだと覚悟している。
「2012年のテーマは『全力』なんです。ここずっと(試合では)自分の力を抑え気味にやっていたように感じていたし、やっぱりそれじゃいけない。常に全力でやっていかないと、自分のレベルもアップしていかない」
人並み外れた筋力の持ち主は、ケガを怖れて自分の力を無意識でセーブしてしまうところがあった。しかしそれでは上に行けない。松田の存在を「超える」ことはできない。レギュラーの座を奪い返せていない代表で当落線上の戦いが続くなか、今年こそ勝負を懸けなければならない――。松田の死というショックを乗り越え、栗原にはその思いが強くなっている。
■「激しいぐらいの熱さは、絶対に捨てちゃならない」
この日、天国から見守った松田直樹は、栗原に何を語っただろうか。
以前、松田からディフェンダーとしてのポリシーを聞いたことがある。
「冷静さは大事だけど、熱くあってこそ自分。相手を吹っ飛ばすぐらいの迫力は必要だし、死んでも止めてやるぐらいの気持ちでプレーする。激しいぐらいの熱さというのは、絶対に捨てちゃならない」
熱く、激しく。
“松田魂”を胸に秘める栗原は、晴れ上がった空を見上げていた。
(「日本代表、2014年ブラジルへ」二宮寿朗 = 文)
(この記事はサッカー(Number Web)から引用させて頂きました)
《松谷海苔》韓国伝統味付のり【9枚×3袋】 |
豚キムチ
PR
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
